無料部分までしか記事読めてないのでなんともだが、報告ツイとかも見てもこんなことある?って感じだな 一体何がそんな評価されてるんだ? キャラクタービジネス、(いわゆる)IPビジネスの部分で評価されているわけはない気がする そういうキャラクタービジネスのための何かを構築して市場をとることを期待しているのか? 研究力がある人だと思うのでまあその点に関しては値付けは正しいと思うのだが、俺は「Vtuber」としてはそんな価値はないと思う まあなにか新しいものを作る可能性、ってことなのかなぁ https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN096R00Z00C26A2000000/
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- author @BD1pt0ZCnY
3/6/2026, 6:19:30 PM 「十分高度に訓練されたセキュリティ技術者は、パラノイアと区別がつかない。」って感じだな 常識的な楽観を拒否する職業的警戒心が普通の人と相性悪すぎる https://x.com/dnobori/status/2029776804060471515
- author @BD1pt0ZCnY
2/5/2026, 5:05:01 AM todo: Youtubeのいわゆるフリーチャットの枠のコメントを取得して、記録するアプリがほしい 取得するまではよくあるコメビュとかで行けるけど、ログの出力ができるのがほしい 探せばもうあるかもしれない
- author @BD1pt0ZCnY
12/6/2025, 10:46:04 PM 後でもうちょい整理するかmo ### 漫画家やVtuberなどの "見られる側" は「内輪じゃないんだぞ、誰でも見れるSNSでそんなこと言うのが悪い」と叩かれ"見る側"によって燃やされる。 一方で、読者や視聴者などの "見る側" が、"見られる側" の投稿を引用するなどして炎上させたときは「晒し上げ」「ファンネル飛ばし」「犬笛」と非難される。 こういう風にSNS上では非対称な扱いがされるわけだけど、この構造ってだいぶ興味深い気がする。 "見る側" が "見られる側" を品評するのは当然の権利として想定されているのに、その逆は想定されていないんだよな。 以前、Steamのレビューのスクショを投稿してその内容を制作者が批判した時も「レビューを晒すな」とバッシングを受けていたけれど、あれも似たような構造だった。 "見られる側" は活動者とかインフルエンサーとか、いわゆる「発信者」と言ってもいいんだけど、どうもこの立場は流動的ではないらしい。 あたかも演劇の舞台のように、一度「客席」に座った人間は、どれだけ野次を飛ばして注目を集めても「演者」とは見なされない。あくまでも "見る側" の安全圏に置かれたままで、不可侵。本来SNS上においては "見られる側" と "見る側" にはグラデーションがあるはずで、舞台に上がってるかどうかなんて区別しようがないはず。でもどこか空気でその身分(クラス)が固定されている。 ちなみに俺の意見としては、その空気感は間違いで、Twitterはコロッセオでありバトルアリーナで、皆が平等にグラディエーターなんだと思っている。 Twitter上に投稿するということは、リングの上に立つということ。そこに対する反撃や文句は所与の前提でありナンセンス。たとえ相手が格上のインフルエンサーでも、リングの上に上がったなら誰だって殴られる可能性があるし、逆に一般人だからといって客席から安全に石を投げられると思うなよ、という話。 ただし、「外界での振る舞い」をスクショなどで持ち込んで、Twitter上で燃やすことに対しては文句を言ってもいいと思う。 Steamのレビュー欄や日常生活は、Twitterという「戦場」の外の話だ。 リングの上にいる相手を殴るのはルール内だが、外で見かけたからって殴ってはいけないのと同じ理屈だ。別の場所(文脈)で過ごしている人間を、無理やりリングに引きずり上げて殴るのはただの野蛮な行為だろう。Twitterが治外法権のバトルアリーナだとしても、そのルールを外の世界にまで適用してはいけない。 つまり何が言いたいのかというと、Twitterはゴミなので、俺みたいに自分でサイトを作ってブログもどきで石を投げるべきってこと。
- author @BD1pt0ZCnY
11/25/2025, 1:25:58 AM 政治権力/体制において、民主主義とエリート主義との間には緊張関係がある、ということをよく理解できていない人が結構いるんだよな。基本的に(少なくとも日本においては)エリート主義より民主主義のほうへ寄せていくのが大きな流れとしてあって、そうしたなかで、時代や分野ごとにグラデーションができている。 いわゆる「三権分立」を例に挙げると、立法権は国会と選挙によって民主的統制を受けていて、行政権は内閣と官僚によってエリート主義と民主主義のハイブリッドな統制を受けていて、司法権は法曹によってエリート主義的統制を受けている。 前述したとおり、「エリート主義から民主主義へ」という流れがあるので、行政権は内閣人事局の設置(2014年)などによって(いわゆる「官邸主導」)、司法権は検察審査会法の改正や裁判員裁判(2009年)などによって民主的統制が強まってきている。 裁判員裁判は立法趣旨からして「市民の健全な感覚を反映」し、「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上」を目的としていて、裏返して考えると、従来の裁判は「市民感覚が反映されず、国民が理解も信頼もしていない」ものだと捉えているわけだよな。 司法権は、今なおほとんど民主的統制を受けていないわけなんだけど、どうも裁判官は(それを言明するかは別として)民主的統制の欠如による正統性の不足に自覚的っぽいんだよな。近年は特に、民意とか時代の流れみたいなものを、意識的にできる限り取り入れようとしている気がする。 昔は、そういうものに揺らされないことがある種の美学としてあったように思うのだけど、それは菊の御紋の下に判じることができた時代の産物だったんだと思う。原発やら医事裁判やらで、ある種ポピュリスティックだと批判されるような判決が出た/ることに否定的な人もいるけど、でも民衆に迎合しないと権力に正統性がなくなってしまうんだよな。
- soushou @tw-955468858722168836
9/11/2025, 1:25:03 AM この辺はさすがに十八番って感じだな