政治権力/体制において、民主主義とエリート主義との間には緊張関係がある、ということをよく理解できていない人が結構いるんだよな。基本的に(少なくとも日本においては)エリート主義より民主主義のほうへ寄せていくのが大きな流れとしてあって、そうしたなかで、時代や分野ごとにグラデーションができている。 いわゆる「三権分立」を例に挙げると、立法権は国会と選挙によって民主的統制を受けていて、行政権は内閣と官僚によってエリート主義と民主主義のハイブリッドな統制を受けていて、司法権は法曹によってエリート主義的統制を受けている。 前述したとおり、「エリート主義から民主主義へ」という流れがあるので、行政権は内閣人事局の設置(2014年)などによって(いわゆる「官邸主導」)、司法権は検察審査会法の改正や裁判員裁判(2009年)などによって民主的統制が強まってきている。 裁判員裁判は立法趣旨からして「市民の健全な感覚を反映」し、「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上」を目的としていて、裏返して考えると、従来の裁判は「市民感覚が反映されず、国民が理解も信頼もしていない」ものだと捉えているわけだよな。 司法権は、今なおほとんど民主的統制を受けていないわけなんだけど、どうも裁判官は(それを言明するかは別として)民主的統制の欠如による正統性の不足に自覚的っぽいんだよな。近年は特に、民意とか時代の流れみたいなものを、意識的にできる限り取り入れようとしている気がする。 昔は、そういうものに揺らされないことがある種の美学としてあったように思うのだけど、それは菊の御紋の下に判じることができた時代の産物だったんだと思う。原発やら医事裁判やらで、ある種ポピュリスティックだと批判されるような判決が出た/ることに否定的な人もいるけど、でも民衆に迎合しないと権力に正統性がなくなってしまうんだよな。
会話
「反知性主義」ってタームがあるけど、あれって本来は(あるいはタームの定義としては)反知識人主義、つまり知的エリートへの反発のことで、反エスタブリッシュメント的な感情ともかなり重なるんだよな。知性そのものや知識が嫌いというより、専門知と情報の非対称性を抱え込み、「わからないやつは黙ってろ」と言えるような構造を作っている側への反発で、その延長線上で民主的統制を取り戻そう、っていう意識と結びつきやすい。 世界的にこの風潮が隆盛しているけれども、俺はこれを善悪で切るより構造として捉えるべきだと思っていて、本質的には「単純⇔複雑」のスイングだと考えている。複雑化して普通の人にはもう見通せなくなった権力構造を、「カリスマ」がいったん単純化する。そんで、その単純化された権力構造も時とともにまた複雑化していく。そんでまた単純化へ、という往復運動。