AI開発の大いなる過ちはあまりに多くの人が「開発されたAI」を試そうとするところにあるのではないか Artificialでないとされている知能であるところの我々人間はかくも多くの「試し」を受けているだろうか? 「私」はSOTAである「AI」と比較してどうなのか? 「私」が「AI」と同じだけの数の人間に、同じだけの数の「試し」を受けたならばどのように評価されるのだろうか? "汝、隣人たるAIを試みてはならない"のだ 少なくとも、いかなる指標も知能があるかを判断できると考えるべきでない そして、である以上はAGIか否かを判別しえないし、仮にできたとしてもASIとのグラデーションは実に緩やかであろう ChatGPT 5のリリース時の騒動を見てもわかるように、もはや「AI」の性能向上よりも各ユーザーの好みやツボに媚びていくことの価値や、それを達成するための「歴史/関係性」の蓄積のほうが重要である ほとんどの人はもう「AI」と人間との差を評価できない そもそもとして原理上、「私」以外が「知能」を持っているかどうかを判別することはできない 本当の「人工知能」は「私」と融合することで初めて産まれるだろう