RT @hololivetv: 【お詫び】
先日実施した #沙花叉クロヱ の「生誕記念配信」において、配信トラブルにより、タレント本来のパフォーマンスを発揮することが難しい結果となりました。
この事態を重く受け止め、再発防止に取り組んでまいります。
この度は、ファンの皆様に…
RT @hololivetv: 【お詫び】
先日実施した #沙花叉クロヱ の「生誕記念配信」において、配信トラブルにより、タレント本来のパフォーマンスを発揮することが難しい結果となりました。
この事態を重く受け止め、再発防止に取り組んでまいります。
この度は、ファンの皆様に…
LLMに雑談をさせようとすると、あんまりうまくいかない。もっと積極的に、そしてこちらの予想もつかないことを話させるためにはどうするべきか? 適当にネットサーフィンとか青空文庫でも読ませて、コンテキストを「汚染」するべき? たぶんその方向性はあっていて、本テキストをこちらの会話内容以外のものから入れて、もっと多様な、記憶というか文脈を、変なもの、特殊なものにさせないといけない。 その一つとして俺が思っているのは、乱数で例えば「あ」とか「タ」とかを生成して、その5文字を頭文字にした単語をいくつか作る。さらに、その5文字のうちどれかを使って文章を作る。そういうことをやった後で、それらについて雑談する、みたいな工程を一回挟む。 つまり、決定論的な過程によってランダムを無理やり作る。それによって雑談の独自性や独創性を上げる必要があるのかなと思う。 これって人間でもやっていて、ランダムなワードメーカーみたいなもので適当に複数の単語を出力して、それらを組み合わせて新しいものを発見する、というのはよくある手法なんだけど、その応用みたいなことができるんじゃないかなとはちょっと思ってる。 あと、人間において雑談が面白く感じるのって、その人が自分とは違う体験をしているからだと思う。ってことは、AIというかLLMエージェントにおいても、自分とは全然違う体験をさせる必要がある。 それをどうやるかとなると、やっぱりこの現実世界に放流することなんじゃないかと思う。現実世界こそが一番ランダム性を生み出しやすい場所なので、そこに何らかの形で参画させて、そこでコンテキストを「汚染」する必要があるんじゃないかなと思うん。 それこそSNSとかに放流して体験を蓄えさせたり。そうしないと、なんかつまらないエージェントにしかならない気がする。
AIコンパニオン(とかTuberとかなんでもいいけど)の記憶において保持は別に重要ではない テキストデータならどうにでもなる 一番考えなければいけないのは検索/想起で、応答の際に必要な文脈を漏らさずに持ってくる仕組みが大事 記銘は生のログなどを想起に便利な形式に変換する必要がある
以下引用 '''' nyうryおkうdえkいnあい Anonymous 2022年1月1日 19:00 件名用のようにキーボード入力不能になる質問がいくつか見られるのですが、私自身も同じ状態に陥ることが今もあり、また有効な回答が見当たらないので質問させてもらいます。 この場合において 1,【Ctrl + Alt + Delete】の同時押しをしてから、タスクマネージャーを選択する。 2,タスクマネージャー内の『タグ:プロセス』の中から『Micro Sofr Text input Application』にマウスを合わせる。 3,右クリックでメニューを表示する。 4、メニュー内の項目からから【タスクの終了】を選択して左クリックする。 これらの操作後に、すぐに「Micro Soft Text Input Application」は再起動されますが、「nyうryおkうdえkいnあい」なんて状態は「入力できない」と変換可能に戻ります。 これが有効な回復方法か?バグ潰しの足掛かりになるのか?という情報共有を促すために、投稿しておきます。 ''''
後でもうちょい整理するかmo ### 漫画家やVtuberなどの "見られる側" は「内輪じゃないんだぞ、誰でも見れるSNSでそんなこと言うのが悪い」と叩かれ"見る側"によって燃やされる。 一方で、読者や視聴者などの "見る側" が、"見られる側" の投稿を引用するなどして炎上させたときは「晒し上げ」「ファンネル飛ばし」「犬笛」と非難される。 こういう風にSNS上では非対称な扱いがされるわけだけど、この構造ってだいぶ興味深い気がする。 "見る側" が "見られる側" を品評するのは当然の権利として想定されているのに、その逆は想定されていないんだよな。 以前、Steamのレビューのスクショを投稿してその内容を制作者が批判した時も「レビューを晒すな」とバッシングを受けていたけれど、あれも似たような構造だった。 "見られる側" は活動者とかインフルエンサーとか、いわゆる「発信者」と言ってもいいんだけど、どうもこの立場は流動的ではないらしい。 あたかも演劇の舞台のように、一度「客席」に座った人間は、どれだけ野次を飛ばして注目を集めても「演者」とは見なされない。あくまでも "見る側" の安全圏に置かれたままで、不可侵。本来SNS上においては "見られる側" と "見る側" にはグラデーションがあるはずで、舞台に上がってるかどうかなんて区別しようがないはず。でもどこか空気でその身分(クラス)が固定されている。 ちなみに俺の意見としては、その空気感は間違いで、Twitterはコロッセオでありバトルアリーナで、皆が平等にグラディエーターなんだと思っている。 Twitter上に投稿するということは、リングの上に立つということ。そこに対する反撃や文句は所与の前提でありナンセンス。たとえ相手が格上のインフルエンサーでも、リングの上に上がったなら誰だって殴られる可能性があるし、逆に一般人だからといって客席から安全に石を投げられると思うなよ、という話。 ただし、「外界での振る舞い」をスクショなどで持ち込んで、Twitter上で燃やすことに対しては文句を言ってもいいと思う。 Steamのレビュー欄や日常生活は、Twitterという「戦場」の外の話だ。 リングの上にいる相手を殴るのはルール内だが、外で見かけたからって殴ってはいけないのと同じ理屈だ。別の場所(文脈)で過ごしている人間を、無理やりリングに引きずり上げて殴るのはただの野蛮な行為だろう。Twitterが治外法権のバトルアリーナだとしても、そのルールを外の世界にまで適用してはいけない。 つまり何が言いたいのかというと、Twitterはゴミなので、俺みたいに自分でサイトを作ってブログもどきで石を投げるべきってこと。
政治権力/体制において、民主主義とエリート主義との間には緊張関係がある、ということをよく理解できていない人が結構いるんだよな。基本的に(少なくとも日本においては)エリート主義より民主主義のほうへ寄せていくのが大きな流れとしてあって、そうしたなかで、時代や分野ごとにグラデーションができている。 いわゆる「三権分立」を例に挙げると、立法権は国会と選挙によって民主的統制を受けていて、行政権は内閣と官僚によってエリート主義と民主主義のハイブリッドな統制を受けていて、司法権は法曹によってエリート主義的統制を受けている。 前述したとおり、「エリート主義から民主主義へ」という流れがあるので、行政権は内閣人事局の設置(2014年)などによって(いわゆる「官邸主導」)、司法権は検察審査会法の改正や裁判員裁判(2009年)などによって民主的統制が強まってきている。 裁判員裁判は立法趣旨からして「市民の健全な感覚を反映」し、「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上」を目的としていて、裏返して考えると、従来の裁判は「市民感覚が反映されず、国民が理解も信頼もしていない」ものだと捉えているわけだよな。 司法権は、今なおほとんど民主的統制を受けていないわけなんだけど、どうも裁判官は(それを言明するかは別として)民主的統制の欠如による正統性の不足に自覚的っぽいんだよな。近年は特に、民意とか時代の流れみたいなものを、意識的にできる限り取り入れようとしている気がする。 昔は、そういうものに揺らされないことがある種の美学としてあったように思うのだけど、それは菊の御紋の下に判じることができた時代の産物だったんだと思う。原発やら医事裁判やらで、ある種ポピュリスティックだと批判されるような判決が出た/ることに否定的な人もいるけど、でも民衆に迎合しないと権力に正統性がなくなってしまうんだよな。